中井久夫『樹をみつめて』から 「ケヤキ」(その2)

十二年後の三十二歳の秋、多摩川のほとりの団地に所帯を持った。武蔵野台地の南端がハケという河岸段丘を作って、そこに長年月の間に流れ着いた若木や種子の何十という樹種が育って森となっている。その下の川原、つい先ごろまで水田だったところに団地はある。さらに南に広がる葦原を越えた向こうに川面が光る。歴史以前から南流を止めない多摩川は今も神奈川県側の川岸を掘りくずしている。

土地の人は屋敷林を巡らして住んでいた。林は何本かのケヤキの大樹から成る。冬を迎えると、ケヤキは葉をふるい落として、その繊細な枝細工をあらわにした。低くわだかまる家々の空高く数本ずつかたまってそびえる樹は、力士が寄り合って相談しているようにもみえた。

樹はそれぞれ、大枝の一つ一つが開いた扇の形となり、それが集まって一本の樹全体がまた一つの扇形を冬空に描いていた。扇形を縁どるのはすべて梢の繊細な先端である。この樹容の整いは、枝を昇る樹液の最終到達点の見事な一致が生み出したものに相違ない。

私が馴染んできた関西のケヤキはこれほどの巨樹にはならないようである。この武蔵野の巨人はふんだんな地下水の賜物かもしれなかった。少し北を走る国分寺崖線には泉の列が湧いているではないか。

神戸にきて庭にケヤキを植えた。盆栽のような小さな武者立ちのケヤキは、しかし、あっという間に大きくなった。庭師が木を剪定した。多くの枝を失った樹の葉は一枚一枚がにわかに大きくなった。新たに芽生えた葉も大きい。一枚の葉の面積を大きくすることによって葉の総面積の断固回復を試みる木の気迫を感じた。ケヤキの葉は薄く、みずからの重みで垂れ下がる。木は剪定を恨んでいるようにもみえた。

数年後、ついにそんな葉の塊となった木を伐った。木を切るのはどの木でも後味が悪い。まして樹の自然で合理的な営みなのに、こちらの感じがよくないと伐るのは残酷であろう。切り株にしばらくキノコが密生して木の魂が残るようであった。

中井 久夫(なかい ひさお、1934年1月16日 – ) 日本の医学者、精神科医。専門は精神病理学、病跡学。神戸大学名誉教授。医学博士。文化功労者


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